2010年02月22日
★カマンメディアセンター原田麻以さんからの返信
こんな深夜に、忙しい中、カマンメディアセンターの原田麻以さんから、先日のブログの返事がきた。
横浜下町パラダイスまつりブログ
★釜ヶ崎カマンメディアセンター原田麻以インタビュー
http://downtownart.hama1.jp/e821373.html
「表現の他者性」というところに関するメールだ。
今メールの一部について転載してもいいかどうか、確認中。
『きょうのブログに「表現の他者性」について書きました』とのお知らせもらったので、とりあえず、その一部を転載します。
+++++++++++++++
▼かまめブログ2010年2月22日 00:17)
『その傷は自分のものであったかもしれない』より一部抜粋
http://www.kama-media.org/japanese/blog/
<そこで発表されたたくさんのパフォーマンスの中で
自分を傷つけるというパフォーマンスをした人がいた
目の前で
そこでなにがなされたか 書くこともできない
その人は「リストカットをする人のきもちがわからないからやってみた」と言った
リストカット というのはさまざまな処理しきれないものが表面に現れたもののひとつ ではないかとおもい
それが別のかたちで表面にあらわれることもあるはずで だから
大切なのは表面にあらわれた行為の形式をただなぞることではなく、その根本にあるものと向き合う行為なのだとおもう
向き合い関わり、そこからなにかを立ち上げることがアートにできる行為なのだとおもう
即物的表面的な行為を表現する意外の別のアプローチがもっとあるとおもう
その自分を傷つける行為を わたしは見ることなんてできなくてずっと目を伏せていた
目をとじて なぜか、西成のまちを思い出した
なぜか なみだがとじた目の中にたまって
同時になぜこんなにもたやすく自分を傷つけるのか なんともいえないいやな気分になる
もしかしたら、傷つけないといられないなにかが、その人の中にもあったのだろうか
会場には何度もリストカットを経験している方もいたが
やはり目を伏せていた
以前、石内都さんという写真家の方の写真もわたしは目をそむけたことがある
写真は人のからだに残る治った傷跡の写真たち
痛々しく生々しいしれらをみているとからだ中が痛くうずくようなかんじで スライドショーで写真が何枚も流れていく途中見ていられなくなった
でもそのときには、目をそらしてはいけない と感じ 必死にその画面と向き合った
今日感じた感覚とはまったく別の感覚
それはその後、石内さんから話された「その傷は他者のものでありしかし、自分のものであったかもしれない」 ということばで腑に落ちた
傷は自分と切り離されたまったく別の世界のものでなく自分の延長にあり、それは他者がもちろん自分の延長にある存在であるとういことであり
傷はその人の生きた歴史であり、目をそむけたくなったり隠したりしていることが多いものだけれど、それはまぎれもない生の証で
その他者の中に自分を見ることを引き受けて撮られた写真だった
自己と他者が切り離された中から立ち上がる、自己の表現が 他者 に与えるものって
やはりないんじゃないか とおもう そもそも他者性がないのだから
もんもんと なんだかいやな想いをひきずって ココルームへ帰り
きょうこんなことがあった としゃべって そして、あっこさんつくってくれたやさいたっぷりのラーメンをたべ 落ち着く
そしてまたしごと
ココルームがあいていて たまったものを少しでもはきだせて、おいしいごはんで落ちつけて
ああ よかった ココルーム開いていてよかった とお客さんのようにおもう>
横浜下町パラダイスまつりブログ
★釜ヶ崎カマンメディアセンター原田麻以インタビュー
http://downtownart.hama1.jp/e821373.html
「表現の他者性」というところに関するメールだ。
今メールの一部について転載してもいいかどうか、確認中。
『きょうのブログに「表現の他者性」について書きました』とのお知らせもらったので、とりあえず、その一部を転載します。
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▼かまめブログ2010年2月22日 00:17)
『その傷は自分のものであったかもしれない』より一部抜粋
http://www.kama-media.org/japanese/blog/
<そこで発表されたたくさんのパフォーマンスの中で
自分を傷つけるというパフォーマンスをした人がいた
目の前で
そこでなにがなされたか 書くこともできない
その人は「リストカットをする人のきもちがわからないからやってみた」と言った
リストカット というのはさまざまな処理しきれないものが表面に現れたもののひとつ ではないかとおもい
それが別のかたちで表面にあらわれることもあるはずで だから
大切なのは表面にあらわれた行為の形式をただなぞることではなく、その根本にあるものと向き合う行為なのだとおもう
向き合い関わり、そこからなにかを立ち上げることがアートにできる行為なのだとおもう
即物的表面的な行為を表現する意外の別のアプローチがもっとあるとおもう
その自分を傷つける行為を わたしは見ることなんてできなくてずっと目を伏せていた
目をとじて なぜか、西成のまちを思い出した
なぜか なみだがとじた目の中にたまって
同時になぜこんなにもたやすく自分を傷つけるのか なんともいえないいやな気分になる
もしかしたら、傷つけないといられないなにかが、その人の中にもあったのだろうか
会場には何度もリストカットを経験している方もいたが
やはり目を伏せていた
以前、石内都さんという写真家の方の写真もわたしは目をそむけたことがある
写真は人のからだに残る治った傷跡の写真たち
痛々しく生々しいしれらをみているとからだ中が痛くうずくようなかんじで スライドショーで写真が何枚も流れていく途中見ていられなくなった
でもそのときには、目をそらしてはいけない と感じ 必死にその画面と向き合った
今日感じた感覚とはまったく別の感覚
それはその後、石内さんから話された「その傷は他者のものでありしかし、自分のものであったかもしれない」 ということばで腑に落ちた
傷は自分と切り離されたまったく別の世界のものでなく自分の延長にあり、それは他者がもちろん自分の延長にある存在であるとういことであり
傷はその人の生きた歴史であり、目をそむけたくなったり隠したりしていることが多いものだけれど、それはまぎれもない生の証で
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やはりないんじゃないか とおもう そもそも他者性がないのだから
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★花田伸一さんと考える「日常とアートのあいだ」報告
★「沖縄コザの記憶から横浜若葉町を想う」報告会お知らせ
★アサダワタルインタビュー「住み開き」と「著作権」
★いちむらみさこin宮下公園「自殺者3万人の墓」
★小川てつオインタビュー@宮下公園2010/04/19
★いちむらみさこの宮下公園ガイドツアー2010/04/19
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Posted by ART LAB OVA at 04:26│Comments(0)
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